喫茶ナゾベーム

金のかからぬ道楽の日々

23杯め 『ボヘミアンラプソディ』は伝記映画ではない

 

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▲マリーネ・デートリッヒ

(区別するために映画を指す場合は中点なしの『ボヘミアンラプソディ』、曲を示す場合は中点ありの『ボヘミアン・ラプソディ』と書く)

■おっさん55歳、『ボヘミアンラプソディ』で泣く

 過去40年間、私はどんなにおもしろい映画であっても鑑賞の途中で居眠りをしてきた。大好きな『時計じかけのオレンジ』だって観に行くたびに寝たし、ダレ場のない『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ですら途中で寝た。
 もちろんわざと居眠りをしていたわけではない。つまらないと感じたら途中で席を立ってしまう性格である(そのためにできるだけ端の席に座る)。居眠りは退屈だからではなく、「観たいのに寝てしまう」のだ。これはもう病気なのだと諦めていた。

 さて。
 『ボヘミアンラプソディ』を2回観た。1回目は初週にドルビーTHXで。2回目はその一ヶ月後に爆音上映館で。
 2回とも居眠りをすることはなかった。代わりに何度も泣いた。これまでにも映画を観て目を潤ませることは稀にあったが、落涙したことなど一度もなかったのに。55歳のおっさんの目から何度も涙が流れた。
 なんてこった、これは事件だ。


■『ボヘミアンラプソディ』は伝記映画ではない

 映画をどのように見ようと、いかなる感想を抱こうと、それは観客の自由だ。
 「いや、その見方は間違ってるよ」なんて指摘はおせっかいでしかない。黙っとけ、である。このことはよくわかっているつもりだが、それでも言いたいことがある。
 「『ボヘミアンラプソディ』は決して伝記映画なんかじゃない」。

 この映画の制作が公になったのは2010年で、公開までには10年もの時間がかかっている。
 当初に予定されていた製作総指揮・監督・主演の人選はのちに二転三転し、公開時のスタッフに落ち着いて撮影がスタートしたのは2017年のことだ。実質的な撮影期間は3年ということになる。

 公開された映画でクレジットされている監督はブライアン・シンガー。しかし彼は撮影終了の2週間前に解雇されている。この時点でほとんどのシーンの撮影が終了していたが、映画を作品として完成させたのは後任のデクスター・フレッチャーだ(監督名がシンガーのままなのは全米監督協会の取り決めに従ったためだそうだ)。
 
 映画の公開後にクイーン役の4人や音楽監修を担当したブライアン・メイのコメントに触れる機会が増えたが、フレッチャーの話はほとんど聞かない。監督交代劇による「めんどくさいあれこれ」のために沈黙を守っているようにも思われる。だから以下は推測でしかないが、「フレッチャーが『ボヘミアンラプソディー』を伝記映画ではないものに変えた」のではないかと、私は考えている。

 前任の(そして監督としてクレジットされている)シンガーは、フレディーの死までを描こうとしたらしい。どうやらシンガーが作り上げようとした作品はフレディーの伝記映画だった可能性が高い(このあたりについては「ライブエイドをラストシーンにすることはかなり早い時期に決まっていた」というプロデューサーの言葉もあるので、真相はわからない)。
 しかし、後任のフレッチャーによって完成され我々が目にすることとなった映画は、フレディーの死を描かない。ライブエイドで最高の盛り上がりを見せたところでエンドロールの『Don't Stop Me Now』へと移っていく。

 わずか2週間の撮影期間と編集に充てた長くはない時間のなかでフレッチャーが成し遂げたこと。それは、フレディー・マーキュリーの伝記映画用に撮影された素材を「クイーンとフレディーの最高のプロモーションビデオ(の映画版)」に昇華させることだったと、私は考える。
 この映画を観た人は何度も思ったはずだ。
 「このタイミングでこの曲が流れたら泣くわ、そりゃ」と。メアリーとの「恋人としての別れ」のシーンで流れる『ラヴ・オブ・マイ・ライフ』に限らず、「この流れでこの曲が来るのはずるいだろ。でも、これが来ない肩透かしを食らうよりはこの曲で泣いちゃうのが正解!」という流れがものの見事に何度も決まっているのが、『ボヘミアンラプソディー』の大成功の秘密なのだと思う。

 クイーンファン歴の長い人なら134分の上映時間まるごと「来る? 来る? 来たー!」と楽しめるし、今回のブームでクイーンを知った若い人でも、「つなぎ」と呼ぶにはあまりにも強い熱を帯びて作られたストーリーパートによって自然と教育されているので、「その曲」に自然と熱くなれる。
 曲の感動を増すために、ときには事実の時間的な前後関係を(確信的に)無視してまでストーリーパートを組み上げた狙いが、ものの見事に結実している。お見事である。

 大切なことなのでもう一度書く。

 『ボヘミアンラプソディ』は伝記映画ではない。音楽映画だ。


■なぜ題名が『ボヘミアンラプソディ』なのか?

 「この一曲」と言ったら『ボヘミアン・ラプソディ』でしょう、と言われたら「そうですよね」と答えるしかないのだが、あえて屁理屈を。

 この映画のテーマにもっとも合うクイーンの曲(のタイトル)は『We Will Rock You』だと思うが、それはすでに2002年(初演)のミュージカルで使われている。
 ならばフレディーの生き方を表したような『Let Me Entertain You』でもよさそうなものだが、こちらはフレーズとして長すぎたのかもしれない。キャッチーじゃない、ってやつだ。
 
 そこで知名度を考慮して『ボヘミアンラプソディ』となったのだろうが、当時でも、そして現在でも珍しい五部からなるこの曲の構成は、映画とうまくマッチしているように思える。こういうことだ。

1 アカペラパート:祭の予感と確信(ライブエイドのステージに臨むフレディーの視点)
2 バラードパート:ファルーク青年、フレディー・マーキュリーとなる
3 オペラパート:クイーン、駆け上る
4 ハードロックパート;栄光と苦悩~ライブエイド
5 バラードパート:それでも風は吹く(エンディングロールの2曲)

 我々観客は22倍の長さの『ボヘミアンラプソディ』を観て、聴いて、感じたのだ。と言ったら強引に過ぎるだろうか?


■クイーン役の4人

 この映画の成功の功労者のひとりがキャスティングを担当した人物であることに間違いはないと思う。
 
 ブライアン役のグウィリム・リーは、いくらなんでも「似過ぎ」である。おそらくあと何年か経ってブライアン・メイ本人の記憶が怪しくなったら「あの映画にはぼくが本人役として出演した」と言い出すだろう。

 ロジャー役のベン・ハーディーは4人のなかでもっとも損な役回りだったと思う。本物のロジャーの若い頃といったら「こんな人間が存在するのか!」というレベルで美しかったから。当時の記憶を持つファンの目は厳しかったと思うが、この映画でベン自身の人気も上がっているようで、なによりである。

 ジョン役のジョー・マッセロは他の3人と比べてやや出番が少ないが、それ自体がジョンらしくていい。クイーンのファン歴が長い人ほどジョンを好きになる傾向があるが、そういった人々を納得させる演技だったと思う。
 
 そしてフレディー役のラミ・マレック。映画を観るまでは「『ミスター・ロボット』のエリオットが?」と半信半疑だったが、見事にプロの仕事を見せてくれた。
 映画のなかでBBCの番組に出演して『キラー・クイーン』を歌うシーンがある。番組のルールに従って口パクをすることに不満を抱きながらもステップアップのための大切な仕事をする場面だ。
 その場面を観ながら、ふと思った。「これはたしかに口パクに見える。でも考えてみれば、この映画の他の歌唱シーンだって音源はフレディー本人の声なんだから、口パクみたいなものなんだよな。するとこれはラミの演技力の賜物なのか?」
 ステージ上のちょっとした動きや、ライブエイドのステージに飛び出したときのフレディー・スキップ(本物よりもすこし元気)も、じつに「らしかった」。


■最後に

 助演賞を猫たちに!