喫茶ナゾベーム

金のかからぬ道楽の日々

18杯め 龍は雲に消え、鳥と転じて飛ぶ


北京鍋を持っている。
 直径33センチの鉄鍋で、ひとり暮らしのおっさんが用いるには大仰に過ぎる代物だ。重量は約1500グラム。両手をつかったところでリズミカルに振ることなどできやしない。
 それも道理で、元は中華料理店で長年使用されていたものなのだ。プロの道具である。

 三年前の夏、東京はひどい豪雨に襲われた。川があちこちで溢れ、立地によっては床上浸水も珍しくなかった。
 我が家のすぐ近く、息を止めても行ける距離にある中華料理屋・雲龍の店内が雨水にやられた。
 復旧作業のために臨時休業し、やっとの思いで営業を再開したら、また豪雨に見舞われて、店のエアコンが壊れた。
 「もうやめる」。40年以上の長きにわたって地元住民に親しまれてきた雲龍の閉店を、店主はなかばブチ切れ気味に宣言したのだった。

 と、見ていたように書いたが、これはあとになって町内の別の飲食店で聞いた話だ。
 おれは7月22日に380円のラーメンを食べようと雲龍に向かい、入り口のガラス扉の貼り紙で突然の閉店を知り、呆然としていたのだった。
 日にちが明確なのは、当時の日記に「世界一のラーメンが、世界一のワンタン麺が、食べられなくなってしまった」と記録されているからだ。

 「せめて休業なら」と願ったが、雲龍は廃業してしまった。店の前には椅子や調理器具が、「ご自由にお持ちください」と紙を貼られて積まれていた。
 そのときにおれがもらってきたのが北京鍋だ。そうとうな年季が入った鍋だ。雲龍では、チャーハンも、五目そばのスープも、中華丼の上モノも、この北京鍋で調理されていた。カウンター席に座り、店主が鍋とおたまでスピーディーに料理をこしらえていく様子を眺めるのが、この店での楽しみだった。
 部屋に持ち帰った北京鍋に、感謝と惜別の念を込めて、雲龍と命名した。この鍋をつかえばおれのチャーハンの味がすこしはマシになるのでは、という期待もあった。

 雲龍は、典型的な「町の中華屋」だった。気取りなんかどこにもない、赤いテーブルに灰皿とスポーツ新聞が置いてある、安くてうまい中華屋だった。
380円のラーメンは醤油ベースで、麺は太めでやわらか目。スープの表面には丸い脂が軽く浮いて、堅めのチャーシュー、支那竹、ネギ、ナルト、ほうれん草がよく馴染んでいた。

 おそらく、人生で最初の外食は雲龍のラーメンだったと思う。物心ついたときには食べていた、と言っていい。
 雲龍の味はおれにとってそれほど身近な存在だったので、とくにおいしいとも感じることなく、だからありがたいとも思わずに「ふつうに」食べていた。
 高校生の頃、都内の評判のよいラーメン屋にわざわざ出向いて味を楽しむようになった。と言っても、食べログがあるわけでなし、ラーメンに関する情報は東海林さだおのエッセイくらいしかなかった時代だ。椎名誠が『さらば国分寺書店のおばば』を書くよりも昔の話なのだから。
 好みが似通った友人と情報を交換しながら、ぴあMAPを片手に知らない町や街に遠征した。当時の印象が強かったので、おれはラーメン屋をランドマークとして多くの街を認識している。荻窪だったら丸福だし、恵比寿なら恵比寿ラーメンが、いまでもおれの脳内マップの基準点なのだ。

 ラーメンを積極的に食べ歩く趣味は、2000年頃でやめてしまった。「ラーメンの食べ歩き」が市民権を得てしまったからだ。
 「みんながやるなら俺はやらない」を基本姿勢とする天邪鬼であることと、ラーメンを「美食として語る」人々に嫌気がさしたことから、表向きは「ラーメンはたいして好きではない」と言うようになった。
 
それでも「これは!」と思う個性的なラーメンには感動するし、短い期間に集中して通うこともあった。
 例を挙げると、丸福(荻窪)、土佐っ子ラーメン(ときわ台)、桂花(新宿)、天龍(新潟市東堀)、こまどり(岩室)、恵比寿ラーメン(恵比寿)、ホープ軒(外苑前)、たけちゃんにぼしらーめん深大寺)、えぞ菊(新大久保)、純連(ラーメン博物館)、蒙古タンメン中本(池袋)といったところ。
ここに名を挙げた店のいくつかはすでに閉店してしまっているが、自己分析するとあっさり系とドギツイ系の、極の両端のラーメンが好きなんだな、おれは。

 マイベストラーメンは何なのか? を考えたことがある。
 ポストイットにラーメン店の名前を書いて、あっちを動かし、こっちに割り込ませて考え抜いた結果、1位の座に輝いたのは当時350円だった雲龍のラーメンだった。
 さんざんラーメンを食べ歩いたのに、いちばん好きなラーメンは自宅の斜向かいにあった、というメーテルリンキーな結論だ。
 思い出補正的なもの、身びいき的な加点があっての雲龍の優勝だということはわかっている。
 でも、これでいいのだ。おれが味について考えるときの最上の褒め言葉は「懐かしい」だ。懐かしくてほっとして、気持ちが綻んだついでに微笑んでしまうような味が最高なのである。雲龍優勝、文句なし!

 思いついたらすぐに食べに行ける場所に、世界でいちばん好きなラーメンがある。しかも安い。
 心中で雲龍にトロフィーを進呈してから、店が閉じられるまでの数年間は、すくなくともラーメンに関してはとても幸せな時間だった。そして、その幸福感が大きかった分だけ、雲龍突然の廃業によって穿たれた心の穴も深かった。どんなに懐かしんでも、あのラーメンはもう食べられないのだ。ああ。

 雲龍を失ってから3年。未練たらしくインターネットで「板橋 雲龍 ラーメン」を検索してみた。何かを期待していたわけではなかったが、大きな収穫があった。
 ヒットしたのは個人のブログ。雲龍が廃業する前に書かれた日記で、要約すると「飛鳥にそっくりなラーメン屋を見つけた」という内容だ。
 飛鳥とはブログを書いた方が贔屓にしている中華料理屋で、雲龍と同じ沿線の3つ先の駅にあるらしい。ブログによると、飛鳥と雲龍は店構え、雰囲気、そしてメニュー構成だけでなくメニューが書いてある模造紙と文字までそっくりだという。
 その方は雲龍でラーメンを食べてみて、飛鳥のほうがおいしいと感じたようだ。ブログ内には飛鳥の料理の写真も載せてあったが、おれが見ても雲龍とそっくりだ。ワンタン麺など、そのまんまである。
 
 これはどうしたことだ? ブログによれば雲龍と飛鳥は同時期に存在していたわけだから、廃業した雲龍が別の町で名前を変えて再出発した可能性はゼロだ。
 ブログには『中華料理 飛鳥・・・雲龍と姉妹店の謎解きはここにあり』なるエントリーもあるのだが、結論は書かれておらず、「謎は深まるばかり」となっていた。ならばおれが自分の舌で確かめるしかないだろう。

 こういうときだけは行動が早い。ネットで場所を調べ、翌日には電車で飛鳥に向かった。
 飛鳥のある町は、変則の立体構造になっていて、上層と下層に分かれている。飛鳥があるのは下層なのだが、地元民ではないおれは上層の道を進んでしまい、どこから下に降りていいのかわからずに歩きまわっていた。
 迷いながらも二店の類似の謎について考える。よけいな距離、すなわち余分な時間を歩くうちに「これしかない」という答えに辿り着いた。わかってしまえば当たり前の理由だ。もし道に迷わずにまっすぐ飛鳥に行けていたら、店に入った瞬間に「そうだったのか!」と疑問が氷解すると同時に、こんなに簡単な謎解きができなかった自分がいやになっていただろう。方向音痴でよかった。

 飛鳥に着いた。車道を隔てて写真を一枚。たしかに雲龍と似た店構えである。
 重い引き戸を開けて中に入ると、厨房に店主の後ろ姿が見えた。その髪型を見て「やっぱり!」と思った。
 謎の答えはこうだ。

 雲龍は夫婦ふたりで営まれていた店だが、二十数年前には従業員が4人いた。廃業時まで残った夫婦と、もう一組の夫婦。奥さん同士が姉妹だったと記憶している。旦那さんどうしも仲がよく、客足が途絶える時間には店の前でキャッチボールをしていた。野球が好きで、甥っ子が甲子園に出場したときのパネルが廃業するまで壁に飾られていた。

 雲龍で働いていた四人が四人とも、「雲龍の味」の料理をつくることができた。そう、雲龍の味を伝えるのは、残った夫婦だけではなかったのだ。

一組の夫婦が雲龍からいなくなったのかいつだったかは覚えていない。おれにとっては「知らぬ間にいなくなっていた」という感じで、どうしたのが聞くのも憚られる雰囲気があった。
 いなくなったほうの旦那さんを、おれは心中で「大熊さん」と呼んでいた。水島新司の『男どアホウ甲子園』に出てくる、「わっせわっせ、ドバッドバッ」と走り「チョヒチョヒ」と笑う大熊に似ていると感じていたからだ。実際には短く刈り上げた髪型が似ているだけで、ヨダレなど垂らしていないのだが。

 飛鳥の厨房に大熊さんの後頭部があった。ずいぶん年月が経っているのに、最後に見たときと同じ黒々とした坊主頭があった。「いらっしゃい」と振り返った顔も、横にいた奥さんも、「かつての雲龍の50%」を担ったふたりだった。比喩ではなく、雲龍と飛鳥は姉妹店だったのである。
 ラーメンと半チャーハンのセットに餃子を頼んだ。幸い客はおれだけだったので、いろいろと話をすることができた。飛鳥を開店してからもう23年も経っていること、雲龍のご主人は廃業した翌年に癌であっさりと亡くなってしまったことなどを知った。大熊さんの髪が23年前と変わらず真っ黒であることに触れると「これはね……」と笑っていた。

 半チャーハンは雲龍にはないメニューだった。チャーハンといえば全チャーハンだった。メニューはまったく同じではなく、大熊さんなりの工夫が加えられていた。しかし目の前に出された半チャーハンは、どう見ても一人前の分量があった。サービスしてくれたのかもしれない。

 ラーメンもチャーハンも、雲龍の味だった。細かく味わえば違いもあるのだが、それは同じ料理人の体調による差、程度の差に思われた。
 うん、この味この味、と喜んでラーメンをすするおれに「ほんとはちょっと違うんだけどね」と23年の矜持をのぞかせた大熊さんであった。

 久しぶりに心からの「ごちそうさま」と、社交辞令ではない「また来ます」を言って、じつに幸せな気持ちで飛鳥を後にした。次回はワンタン麺かオムライスだな。