喫茶ナゾベーム

金のかからぬ道楽の日々

17杯め 9日、ジラジラした日

 半年おきに病院の眼科に行く。
 3年前の脳梗塞に起因する視野欠損が進行していないか、糖尿病由来の眼底出血はないか、などを調べてもらうためだ。
 昨日が眼科検診の日だった。通院日は曇ってくれることをいつも願っているのだが、あいにく、これでもかと言わんばかりに太陽が照りつけやがる晴天であった。

 なぜ曇りを願うかといえば、晴れると眩しいからだ。
 眼底の様子を調べてもらうための過程で、散瞳薬を点眼される。字が示すとおり、瞳孔を開くための目薬だ。こいつを点眼されると、自分を取り巻く世界の眩しさが数倍に跳ね上がる。そりゃそうだ、健全な状態であれば、光が豊かな環境下では人間の瞳孔は自然と収縮するようにできてるのに、人為的に「瞳孔開きっぱなし」の状態にされてるわけだから。

 そして昨日は、おふざけでないよと言いたくなる程の晴天であった。病院を出たとたん、かつて体験したことがないほどの量の光に全身を包まれて、このまま天に昇っていってしまうんじゃないかと思ったくらいだ。ほんとは思わなかったけど。すいません、大げさ言いました。
 さらに、口をついて「こうじらりじられっちゃ、はぁかいかねが」と生まれ故郷の方言が出てしまった。こんなに眩しくされてしまっては何もできないではないか、という意味だ。ごめんなさい、おれは東京生まれだった。こんな方言はありません。でっちあげました。



 ともかく、昨日の病院からの帰路は、眩しいわ暑いわでさんざんだった。それなのにセブンイレブンがおでんの販売を始めたりして、おそろしいことだなあと思う。
 眩しくて目をちゃんと開けられない。つばで目を太陽から守るように帽子を深くかぶったが、さらに手を顔の前にかざさなければ眩しさに耐えられない。
 こんな状態だからよちよち歩幅の俯き歩きだったが、気分はよかった。

 気分がよかった理由は、書けば長くなりそうだけど、書く。久々のブログだしね。



 おれは今年の5月に3週間の入院をした。と言っても、今回の入院は具合が悪くなってのものではない。具合がこれ以上悪くならないように、薬の種類や量を調整するための、前々から計画されていた入院だった。検査入院や教育入院に毛の生えたもの、って感じだ。

 おれの部屋は6人部屋だった。今回はハズレの部屋だったらしく、同室にろくな患者がいなかった。
 自分の不摂生を棚にあげて愚痴をこぼし続ける奴、毎日真夜中に小便をゴミ箱にやらかして「困った困った」と騒ぐじいさん。そんな中に、ひとりだけまともな患者がいた。仮名で松田さんとしておこう。

 松田さんは72歳だが、外見はずっと若々しい。言葉には下町育ちの匂いが残っていて、ちょっと伝法な感じがおれ好み。なんでも、これまで病気をしたことがなく、当然入院は初めて。それどころか検査すら受けたことがなかったので、病院に来たことじたいが初の体験だそうだ。
 たまたま奥さんに連れられて検査を受けてみたら、血糖値が高すぎるのが発覚して、こりゃたいへんとばかりにそのまま入院になったらしい。

 松田さんとおれは階段友達になった。
 おれたちの病室は8階で、おれは1階まで階段を3往復するのを入院中の日課にしていた。松田さんも2往復することを自身に課してしたようで、「腿に効かせる降り方」の話なんかをよくした。

 病棟では週に2回ほど病気の「教室」が開かれていた。
 その病気の原因や患者本人ができる治療法、再発防止のための注意点などを、医師や看護師がレクチャーしてくれるのである。ところがこの教室に出席する患者が極端に少なかった。
 たいていの患者は「そんなの知ってるよ」とばかりにサボっていたし、病院側に参加を強制する権利はない。皆勤だったのは、松田さんとおれだけだった。
 松田さんの姿勢からは、治ろう、治そうとする意志がはっきり感じられた。

 ある日、そんな松田さんの身に変化が起きた。
 入院中は、あらゆる病気の可能性を考えて、毎日様々な検査が行われる。そんな検査のひとつ、松田さんが受けた直腸癌の検査で、初期の癌が発見された。話を聞いている限りでは「いま気づいてよかったね」「処置が早ければ問題ない」といったレベルの癌のようだった。
 しかし、これまで72年の長きにわたって病気知らずだった松田さんにとって、癌という固有名詞のインパクトは強すぎたようだ。

 人って1日でこんなに変わるものか、とおれが驚いたほど、松田さんは癌の告知後に急速に老けた。
 背筋は丸まり、肩はすぼまり、声はしわがれ、歩幅が小さくなった。目から光が失せ、ため息ばかりつくようになり、階段を降りることも、「教室」に出席することもなくなってしまった。

 告知の2日後に、さらなる変化が松田さんを襲った。
 病棟では毎朝、6時の起床時間に看護師が病室を巡回し、患者の状態をチェックする。その日もいつも通りのやりとりが行われた。
 「確認のためにお名前と生年月日を言ってください」という、看護師のお決まりのフレーズに対し、松田さんは答えることができなかった。枯れた声で「あー、その、なんだ」と繰り返すばかりで、自分の名前すら言えないのである。

 そのやりとりをカーテン越しに聞いていて、「脳梗塞だ」と思った。
 癌のときと同じで、一般的な見方をすれば「発見が早くてよかった」ということになる。発症後6時間以内に処置できれば、脳梗塞はほとんど後遺症なしで治すことが可能と言われているからだ。

 しかし、おれには松田さんの脳梗塞は、癌による精神的なショックによって引き起こされたように思えてなかなかった。
 その後の様子を見ていて恐ろしいと感じたのは、松田さんが脳梗塞によって言葉が出なくなってしまった自分自身を受け入れてしまったことだ。言葉がでないもどかしさにいらいらしたり、怒ったり焦ったりしている様子がまったく感じられなかったのだ。

 ほんの数日前まで元気に階段を登り降りしていた松田さんは、「ああ、はやい話が、その、なんだ、あれだ」と、”ちっとも早くない話”を繰り返すだけの老人になってしまったのだ。

 けっきょく、おれが先に退院するまで、松田さんの病状は改善されなかった。
 退院の日、「自分の経験から、脳梗塞は気力でなんとかなるものだと思います」と挨拶して松田さんと別れた。しかし心中に沸いた「ひょっとするとこのまま退院できずに……」という不吉な想像を消すことができなかった。

 退院後に松田さんを思い出すたびに、すごいものを見せてもらったと感じる。
 「人は、気力だ」ということ。本当に落胆してしまったら、3日で人は壊れてしまうということ。
 よくつかわれるフレーズだが、「心が折れる」ことは本当に恐ろしいのだと、松田さんが教えてくれた。



 で、やっと昨日の話に戻る。

 眼科の受診後、会計伝票をもらうために眼科の待合スペースの椅子に腰掛けていた。
 すでに瞳孔が開いてしまっているので、病院内の照明ですら眩しく、目を開けているのがつらい。視界のなかのすべてが「にじにじ」している。しかたないので目を閉じていると、聴き覚えのある声が耳に入ってきた。

 目を開けて、にじにじの中を探すと松田さんがいた。入院中にはなかった杖を持ってはいたが、ずいぶん回復したようだった。
 付き添いの奥さんとの会話が、ちゃんと会話になっている。切れのよい東京弁にはほど遠いが、だいぶよくなったことがわかる。脳梗塞発症後の口癖だった「はやい話が」も出ていないようだ。
 眼科の受付でおれの名前が呼ばれた。腰掛けている松田さんの前を通るときに「だいぶよくなりましたね。よかった」と声をかけたら、すぐにおれのことがわかったようだった。

 昨日、じらりじられっても気分がよかった理由が、これである。
 スキップしたいくらいうれしかったが、転ぶといけないので我慢した。