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喫茶ナゾベーム

金のかからぬ道楽の日々

22杯め 鶏卵を量る

 ブログの最新記事が『追悼 春一番』の状態で1年以上も放置ってのは、まずいよな。
 と思いつつ、なかなか新しいものを書くことができなかった。その間にWalkerplusの地域トピックスは70本以上書いてるのに。

 というわけで、ほぼ15ヵ月ぶりの更新です。そして、絶対とは言わないけど、『喫茶ナゾベーム』最後の更新になりそうです。やめる理由は単純で、今後は『喰ってくるぞと板橋区』のほうに書くことにしたから。それだけ。

 最後のテーマは『鶏卵のサイズ問題』。すでに世間では一度話題になって、一応の結論も出ているようだけど、自分でも試してみたくてさ。

 これ、「卵のサイズにかかわらず黄身の大きさは同じ」ってやつね。
 初めてこの説を聞いたときに、直感的に「ウっソでー」と思いましたよ。自炊で割ってきた幾多の卵を思い出すと、Sの黄身はちっちゃく、LLの黄身は大きかったから。
 でも「思い込みのせいでそう感じていたのかも」という可能性も、ほんのちょっとだけ残る。
 じゃあ割って調べてみようじゃないの。……というのはウソで、たまたま異るサイズの生卵が3種類手に入ったので、食べるまえに量ってみよう、くらいの軽い話。

 

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▲今回計量したのはこの3種類。Sは近所のスーパーで1パック140円くらい。LLも同じスーパーで、1パック230円くらい。Mだけがいただきもので、調べたら1パック600円。高級品だった

 

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▲測るときに卵に気をつけさせる必要はないんだが、いちおう、ね

 

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▲割って、セパレーターで卵白と卵黄を分離。Sは明らかに小さい。MとLLはパット見ではちがいがわからん

 

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▲結果はこうなった

 

 各サイズ1個ずつという、統計学的にはお話にならない標本数の少なさ。でも、強引に結論を出す。おっと、おれがS、M、LLと分類したものは、正式な基準によるとSS、MS、LLなんだそうだ。雑ですまん

 

結論1
 サイズが大きくなれば黄身も大きくなる

 

結論2
 サイズのちがいにおける重量差は、黄身よりも白身の量の差による部分が大きい

 

結論3
 Sはちっちぇえ!

 

 ってことで。


 ネットでいろいろ調べたら、『たまご博物館』館長の高木伸一さんという方が「サイズがちがっても黄身の大きさは同じ」と言っているそうだ。量ればわかるようなウソを専門家がつくとは思えないので考えてみたら、どうやらこんなあたりに落ち着いた。
「『一羽の同じ雌鶏が生む玉子』がサイズに関わらず黄身の量がほぼ同じ」
 この条件の前半部分が抜け落ちたまま噂が広がってしまったために、おれのように「ウっソでー」と思う人間が多発したんじゃあるまいか。
 対象が「一羽の同じ雌鶏が生む玉子」となると、素人が検証できるもんじゃない。養鶏場か大学の農学部が、しかるべき筋の人が時間をかけて調査してくれないかぎり、真相は闇から出てこない。

 

 

おまけ TKGに関するおれなりの結論

 ガキの頃から何百杯の卵かけごはんを食べてきたことだろう。
 最近になって、ようやっと「おれにとってのTKGの完成形」が見えたので、紹介しておこう。このブログの置き土産だ。

1 なにより大事なのはごはん。米は炊く直前に精米したい。米の種類よりも、精米後の経過時間のほうが重要

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2 できれば羽釜や土鍋で炊きたい。炊きたてであることが大切。修学旅行の朝ごはんじゃねえんだから。TKGのために精米し、研いで、炊く。このプロセスが満足度を押し上げる

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3 分離しておいた卵の白身だけを炊きたてのごはんにかけてまぜる。まぜかたは雑でよい(均質になるまでまぜるのは薦めない)

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4 黄身を投入

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5 ラー油を1滴たらす。できれば半滴くらいの気持ちで。かけすぎると油っぽくなって台無し。ざっと混ぜる

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6 原了郭の『黒七味』を適量ふりかける。全体をもうちょい混ぜる。味の素もちょびっと。化学調味料嫌いの人でも、卵と味の素の相性のよさを一度体験してほしい。そして最後に醤油ね

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7 完成! わしわしと喰え

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 では、次回は『喰ってくるぞと板橋区』でお会いしましょう。

 

 


 

21杯め 追悼 春一番

 春一番が死んだ。

 暖かくて柔らかな、ゆったりした感じの本名だったよな、と思いながら訃報を読むと、春花直樹というらしい。ああ、それで春一番か。

 ファンでもなかったし、とくに注目していたわけでもない。
 でも、気になる芸人ではあった。


 おれはかつてクソまじめな猪木ファンでだった。
 春一番による猪木のマネに「この人は違うな」と思ったことを覚えている。それまでの猪木モノマネとはちがう、という意味だ。
 原型を広めたのは石橋貴明と思っているが、猪木のマネといえば、拳を握ってアゴを付きだして「あんだこのヤロー」と言うだけの、大学生のコンパ芸レベルのものしかなかった。
 春一番は違っていた。「こいつ、本気で猪木を見てるな」。

 

 クソまじめなプロレスファンというのは厄介なもので、レスラーの言った一字一句にこだわってしまう。
 たとえば有名なラッシャー木村の「こんばんは、ラッシャー木村です」。いわゆる『こんばんは事件』。
 あれ、1981年の田園コロシアムでは「こんばんは、ラッシャー木村です」とは言っていないのだ。
 「こんばんは」の挨拶はたしかにあった。それが新しい抗争の幕開けを期待する観客を白けさせたのは事実だが、「ラッシャー木村です」はビートたけしがキャッチーなフレーズになるように後付けしたものだ。
 おれは田園コロシアムでその場面を生で見ていたし、観客席にウォークマンを持ち込んで録音までしていたから、まちがいない。

 しかし世間には「ラッシャー木村です」がついた形で広まった。

 ラッシャー木村自身も著書の題名を『こんばんはラッシャー木村です』にしていたように記憶している。
 いまにして思えば、たけしがもし「ラッシャー木村です」を付け加えなかったら、のちの木村のプチブレイクもなかったのかもしれないが。

 おれのようなリテラリズムのプロレスファンは、その「こんばんは」に引っかかりを感じてしまう。勝手なものをくっつけて通りのいいようにしやがって。
 このあたりの、幼いとも言える感覚に、春一番も捕らわれていそうに思えた。

 いま、猪木のマネといえば定番は「元気ですかー」と「1.2.3、ダー!」だが、昔の猪木は「1.2.3」などと言ってはいなかった。

 終了のゴングが鳴る。猪木自身が鎮めることができない試合の興奮。それにどうにかしてピリオドを打とうとする叫びが「ダー!」だったように感じていた。何かをまとめるのではなく、何かを振り切るための雄叫びであった。


 猪木が初めて「1・2・3」が頭についたダー! を披露したのは1990年の後楽園ドームの試合後だった。客席は失笑したが、反射神経のよい者は即座に乗っかった。このときから雄叫びは「ご唱和」するものに変わった。
 おれは「猪木、これまでありがとう。さようなら」と思いながら頭を下げた。

 

 春一番は猪木のマネをするときに「1・2・3」をつけていたが、そこには様々なアレンジが加えられていた。
 それは笑いを取るための方策ではなく、「ほんとうはこんなの付かないのに」という春一番の気持ちを処理するための目眩ましと感じられた。

 猪木のマネをする芸人は何人かいるが、お笑いとしての正解にもっとも近いのはアントキの猪木だろう。猪木の明るい部分だけをすくい取って、リズミカルに軽く見せる。
 春一番は、あまりにも本気で猪木を見つめ過ぎたために、暗さや闇にまとわりつかれてしまったように感じる。
 猪木はまちがいなくスターだ。しかしもうひとりの「燃える男」長嶋茂雄と比べると、あまりに暗い。

 ジャイアント馬場、プロボクシング、そして世間。コンプレックスだけを材料として燃え続けてきた猪木には、灰よりもさらに暗い影がつきまとう。


 お笑いには向かないリテラリズムで猪木を写し取ろうとしたのであれば、春一番から陰気さが滲んでしまうのは、むしろ勲章なのかもしれない。
 ただし。太陽を見続けた人はひょっとしたら星になれるかもしれないが、穴を覗き込み続けたら、引き込まれるしかないのだ。
 どんなに止められても酒を飲まずにいられなかったのも、わかる気がする。

 そして「酒をやめれば一生つかってやる」と言ったのがビートたけしというのも、どこかプロレス的だなと思う。

 

 おれが勤めていた会社のある部署が、撮影のために春一番を呼んだことがあった。
 楽屋となった会議室の近くに、テレビで見ていたよりもずっと痩せてしまった春一番がいた。「猪木が好きすぎて、猪木に生命力を吸い取られている」なんて言われていた頃だ。
 挨拶すらせずに、おれは(死なないでね)という気持ちで「がんばってください」とだけ言った。春一番は真顔で、春花直樹の声で「ありがとうございます」と答えた。

 

 その数年後、こんどは会社がアントニオ猪木本人を呼んだ。
 プロレスファンの多い会社だったので、当日の社内は浮き足立っていた。
 おれがこの会社にアルバイトとして席をもらったときのひとつの目標が「いつか猪木に会うこと」だった。
 しかし、会いたいと思っていたのは雄叫びの猪木であって「ご唱和」の猪木ではなかったから、撮影を覗きに行くことはなかった。

 

 春でも冬でもなく、梅雨に逝った春一番
 それが似合っているように思える。合掌。

 

 

20杯め ご縁のも能力高かったら

 5月5日。こどもの日。

 

 「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日だそうだ。

 感謝されるのは母だけかあ。

 母の日もある5月は mounth of mothers だな。

 

 スーパーで合い挽き肉を買った帰り道、うしろから自転車に乗ったお母さんの声が近づいてきた。

「5円のものを6個買ったら?」

 自転車で併走する女の子が元気に答える。

「100えーん!」

 もう、と言ってお母さんが質問を繰り返す。

「500えーん!」

 

 振り返るまでもなく、2台の自転車とおれとの距離、おれを追い抜くまでにかかる時間、女の子が小学校の低学年であること、彼女がふざけていること、わかっていながらお母さんが質問を繰り返していることがわかる。

 聴覚ってのはたいしたもんだな、と思ったときに固くも柔らかくもない小さなものが地面に落ちる音がして、ふたりがおれの横を抜き去っていった。

 

 ライター? と訝しみながら拾い上げると、開封前のガムだった。こどもの日のささやかなプレゼントとして買ってもらったのだろう。

 すでに2台の自転車はおれとガムを10メートルも置き去りにしていた。掛け算に夢中で、呼びかけても聞こえないだろう。

 50メートルほど先にある踏切が運良く閉まっている。追いつけそうな気がした。

 おれくらいになると、小走りもダッシュも速さは変わらない。へたに本気を出したら脚がもつれてすっ転ぶのがわかっているから、小走りで追いかけた。

 ふだんならそんなことはしない。でも今日はこどもの日。

 

 ふたりはあと3回も漕げば踏切というところまで進んでいたが、遮断機が開かずモードに入っているようで、無事にガムを返せそうだ。

 と安心したら、ふたりはひらりと脇道に曲がっていった。

 

 それから3日のあいだ、買い物に出るたびに携えていたガムが持ち主の元に帰ることはなかった。

 

 こどもの日に買ってもらったガム。なくしちゃったことを忘れないでいてくれるといいな、あの子。

 

 今回のタイトルは、スマホに音声メモで「5円のものを6個買ったら」と囁いたときの結果。

 ガムにはご縁がなかったんだな。

 

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19杯め 予知夢を見た話

 死後の世界や幽霊の存在をまったく信じていないが、現代の科学が万能だとも思っていない。

 不思議なことはいくらでもあるし、おれの身の回りにもよく起こる。

 

 はっきりした予知夢を見たことがある。

 2年前の7月に、4日間の検査入院をしたときの、最後の夜のことだ。

 

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 おれは6人部屋の患者だった。通路を挟んで3つずつ振り分けられたベッドの、北側のまん中がおれの場所だった。各々のベッドはカーテンで隔てられていて、個室のような空間になっていた。

 おれの左隣のベッドは空いていた。右隣のベッドの患者は話し好きで賑やかな初老の男だった。悪い人ではなさそうだったがとにかくよくしゃべる。

 声を出さないと呼吸ができないのかと思うほどしゃべり続けている。カーテンを隔てていても、隣のおれになにかと話しかけてくるのが煩わしかった。会話に積極的に応じる気分にもなれず、ええ、まあ、などと、適当な相槌を打ってやり過ごしていた。

 寝て起きれば退院という夜。妙な夢で目が覚めた。

 警察官に事情聴取されている夢だった。おれが何かをしでかしたわけではなく、参考人のような立場だった。

 犯人でも被疑者でもないから詰問されることもなく、調書を取る警官の物腰は丁寧だった。「ほかに何かお気づきのことはありませんか」。

 

 午前3時ごろ。おかしな夢を見たもんだ、と思いながら目が覚めた。事情聴取の夢など初めてだったから。

 隣のベッドから「お母さん、ごめんなさい」という声が小さく聞こえた。昼間はあれほどやかましかった隣の男の寝言のようだった。寝てしまえばかわいいもんだ、と思いながら、おれは再び眠りに落ちた。

 

 入院患者の起床時間は6時だが、翌朝はそれより早く起こされた。

 3人組の看護士が「ごめんなさいね、朝早くから」と詫びながら、入院患者の引っ越しを始めた。よほど急いでいたらしく、寝たままの患者を載せたベッドごと引越し先の部屋にゴロゴロと運ばれた。

 本来の起床時間の6時になるまえに、同室の患者はすべて他の部屋に移された。いや、正確には「ひとりを除いて」だと後にわかるのだが。隣のおしゃべり男と「どうしたんでしょうね」と話していると、看護師長から説明があった。

 

 ほんの数時間まえに、同じ病室の患者がカーテンレールを使って首を吊って死んだという。

 現場の保存のため、そして自殺者が出た部屋に入院患者をそのままにしておけないからという理由で、早朝の部屋替えが強行されたのだ。

 その患者のベッドは、おれのはす向かいだった。おしゃべり好きな男の、通路を挟んだ向かいのベッドである。

 ああ、そうか。夜中に聞いて、隣のおしゃべり男の寝言だと思ったのは、自殺者の最後の言葉だったのか。お母さん、ごめんなさい。

 

 1時間ほどすると警察官がやってきた。

 相部屋の患者がひとりずつ別室に呼ばれて事情聴取をされた。

 おれは自殺した患者と言葉を交わしたこともないし、顔すら見たことがなかったが、「お母さんごめんなさい」のことだけを伝えた。その情報に対して、警察官が食いついてくることもなかった。

 ドラマとはちがうんだな。

18杯め 龍は雲に消え、鳥と転じて飛ぶ


北京鍋を持っている。
 直径33センチの鉄鍋で、ひとり暮らしのおっさんが用いるには大仰に過ぎる代物だ。重量は約1500グラム。両手をつかったところでリズミカルに振ることなどできやしない。
 それも道理で、元は中華料理店で長年使用されていたものなのだ。プロの道具である。

 三年前の夏、東京はひどい豪雨に襲われた。川があちこちで溢れ、立地によっては床上浸水も珍しくなかった。
 我が家のすぐ近く、息を止めても行ける距離にある中華料理屋・雲龍の店内が雨水にやられた。
 復旧作業のために臨時休業し、やっとの思いで営業を再開したら、また豪雨に見舞われて、店のエアコンが壊れた。
 「もうやめる」。40年以上の長きにわたって地元住民に親しまれてきた雲龍の閉店を、店主はなかばブチ切れ気味に宣言したのだった。

 と、見ていたように書いたが、これはあとになって町内の別の飲食店で聞いた話だ。
 おれは7月22日に380円のラーメンを食べようと雲龍に向かい、入り口のガラス扉の貼り紙で突然の閉店を知り、呆然としていたのだった。
 日にちが明確なのは、当時の日記に「世界一のラーメンが、世界一のワンタン麺が、食べられなくなってしまった」と記録されているからだ。

 「せめて休業なら」と願ったが、雲龍は廃業してしまった。店の前には椅子や調理器具が、「ご自由にお持ちください」と紙を貼られて積まれていた。
 そのときにおれがもらってきたのが北京鍋だ。そうとうな年季が入った鍋だ。雲龍では、チャーハンも、五目そばのスープも、中華丼の上モノも、この北京鍋で調理されていた。カウンター席に座り、店主が鍋とおたまでスピーディーに料理をこしらえていく様子を眺めるのが、この店での楽しみだった。
 部屋に持ち帰った北京鍋に、感謝と惜別の念を込めて、雲龍と命名した。この鍋をつかえばおれのチャーハンの味がすこしはマシになるのでは、という期待もあった。

 雲龍は、典型的な「町の中華屋」だった。気取りなんかどこにもない、赤いテーブルに灰皿とスポーツ新聞が置いてある、安くてうまい中華屋だった。
380円のラーメンは醤油ベースで、麺は太めでやわらか目。スープの表面には丸い脂が軽く浮いて、堅めのチャーシュー、支那竹、ネギ、ナルト、ほうれん草がよく馴染んでいた。

 おそらく、人生で最初の外食は雲龍のラーメンだったと思う。物心ついたときには食べていた、と言っていい。
 雲龍の味はおれにとってそれほど身近な存在だったので、とくにおいしいとも感じることなく、だからありがたいとも思わずに「ふつうに」食べていた。
 高校生の頃、都内の評判のよいラーメン屋にわざわざ出向いて味を楽しむようになった。と言っても、食べログがあるわけでなし、ラーメンに関する情報は東海林さだおのエッセイくらいしかなかった時代だ。椎名誠が『さらば国分寺書店のおばば』を書くよりも昔の話なのだから。
 好みが似通った友人と情報を交換しながら、ぴあMAPを片手に知らない町や街に遠征した。当時の印象が強かったので、おれはラーメン屋をランドマークとして多くの街を認識している。荻窪だったら丸福だし、恵比寿なら恵比寿ラーメンが、いまでもおれの脳内マップの基準点なのだ。

 ラーメンを積極的に食べ歩く趣味は、2000年頃でやめてしまった。「ラーメンの食べ歩き」が市民権を得てしまったからだ。
 「みんながやるなら俺はやらない」を基本姿勢とする天邪鬼であることと、ラーメンを「美食として語る」人々に嫌気がさしたことから、表向きは「ラーメンはたいして好きではない」と言うようになった。
 
それでも「これは!」と思う個性的なラーメンには感動するし、短い期間に集中して通うこともあった。
 例を挙げると、丸福(荻窪)、土佐っ子ラーメン(ときわ台)、桂花(新宿)、天龍(新潟市東堀)、こまどり(岩室)、恵比寿ラーメン(恵比寿)、ホープ軒(外苑前)、たけちゃんにぼしらーめん深大寺)、えぞ菊(新大久保)、純連(ラーメン博物館)、蒙古タンメン中本(池袋)といったところ。
ここに名を挙げた店のいくつかはすでに閉店してしまっているが、自己分析するとあっさり系とドギツイ系の、極の両端のラーメンが好きなんだな、おれは。

 マイベストラーメンは何なのか? を考えたことがある。
 ポストイットにラーメン店の名前を書いて、あっちを動かし、こっちに割り込ませて考え抜いた結果、1位の座に輝いたのは当時350円だった雲龍のラーメンだった。
 さんざんラーメンを食べ歩いたのに、いちばん好きなラーメンは自宅の斜向かいにあった、というメーテルリンキーな結論だ。
 思い出補正的なもの、身びいき的な加点があっての雲龍の優勝だということはわかっている。
 でも、これでいいのだ。おれが味について考えるときの最上の褒め言葉は「懐かしい」だ。懐かしくてほっとして、気持ちが綻んだついでに微笑んでしまうような味が最高なのである。雲龍優勝、文句なし!

 思いついたらすぐに食べに行ける場所に、世界でいちばん好きなラーメンがある。しかも安い。
 心中で雲龍にトロフィーを進呈してから、店が閉じられるまでの数年間は、すくなくともラーメンに関してはとても幸せな時間だった。そして、その幸福感が大きかった分だけ、雲龍突然の廃業によって穿たれた心の穴も深かった。どんなに懐かしんでも、あのラーメンはもう食べられないのだ。ああ。

 雲龍を失ってから3年。未練たらしくインターネットで「板橋 雲龍 ラーメン」を検索してみた。何かを期待していたわけではなかったが、大きな収穫があった。
 ヒットしたのは個人のブログ。雲龍が廃業する前に書かれた日記で、要約すると「飛鳥にそっくりなラーメン屋を見つけた」という内容だ。
 飛鳥とはブログを書いた方が贔屓にしている中華料理屋で、雲龍と同じ沿線の3つ先の駅にあるらしい。ブログによると、飛鳥と雲龍は店構え、雰囲気、そしてメニュー構成だけでなくメニューが書いてある模造紙と文字までそっくりだという。
 その方は雲龍でラーメンを食べてみて、飛鳥のほうがおいしいと感じたようだ。ブログ内には飛鳥の料理の写真も載せてあったが、おれが見ても雲龍とそっくりだ。ワンタン麺など、そのまんまである。
 
 これはどうしたことだ? ブログによれば雲龍と飛鳥は同時期に存在していたわけだから、廃業した雲龍が別の町で名前を変えて再出発した可能性はゼロだ。
 ブログには『中華料理 飛鳥・・・雲龍と姉妹店の謎解きはここにあり』なるエントリーもあるのだが、結論は書かれておらず、「謎は深まるばかり」となっていた。ならばおれが自分の舌で確かめるしかないだろう。

 こういうときだけは行動が早い。ネットで場所を調べ、翌日には電車で飛鳥に向かった。
 飛鳥のある町は、変則の立体構造になっていて、上層と下層に分かれている。飛鳥があるのは下層なのだが、地元民ではないおれは上層の道を進んでしまい、どこから下に降りていいのかわからずに歩きまわっていた。
 迷いながらも二店の類似の謎について考える。よけいな距離、すなわち余分な時間を歩くうちに「これしかない」という答えに辿り着いた。わかってしまえば当たり前の理由だ。もし道に迷わずにまっすぐ飛鳥に行けていたら、店に入った瞬間に「そうだったのか!」と疑問が氷解すると同時に、こんなに簡単な謎解きができなかった自分がいやになっていただろう。方向音痴でよかった。

 飛鳥に着いた。車道を隔てて写真を一枚。たしかに雲龍と似た店構えである。
 重い引き戸を開けて中に入ると、厨房に店主の後ろ姿が見えた。その髪型を見て「やっぱり!」と思った。
 謎の答えはこうだ。

 雲龍は夫婦ふたりで営まれていた店だが、二十数年前には従業員が4人いた。廃業時まで残った夫婦と、もう一組の夫婦。奥さん同士が姉妹だったと記憶している。旦那さんどうしも仲がよく、客足が途絶える時間には店の前でキャッチボールをしていた。野球が好きで、甥っ子が甲子園に出場したときのパネルが廃業するまで壁に飾られていた。

 雲龍で働いていた四人が四人とも、「雲龍の味」の料理をつくることができた。そう、雲龍の味を伝えるのは、残った夫婦だけではなかったのだ。

一組の夫婦が雲龍からいなくなったのかいつだったかは覚えていない。おれにとっては「知らぬ間にいなくなっていた」という感じで、どうしたのが聞くのも憚られる雰囲気があった。
 いなくなったほうの旦那さんを、おれは心中で「大熊さん」と呼んでいた。水島新司の『男どアホウ甲子園』に出てくる、「わっせわっせ、ドバッドバッ」と走り「チョヒチョヒ」と笑う大熊に似ていると感じていたからだ。実際には短く刈り上げた髪型が似ているだけで、ヨダレなど垂らしていないのだが。

 飛鳥の厨房に大熊さんの後頭部があった。ずいぶん年月が経っているのに、最後に見たときと同じ黒々とした坊主頭があった。「いらっしゃい」と振り返った顔も、横にいた奥さんも、「かつての雲龍の50%」を担ったふたりだった。比喩ではなく、雲龍と飛鳥は姉妹店だったのである。
 ラーメンと半チャーハンのセットに餃子を頼んだ。幸い客はおれだけだったので、いろいろと話をすることができた。飛鳥を開店してからもう23年も経っていること、雲龍のご主人は廃業した翌年に癌であっさりと亡くなってしまったことなどを知った。大熊さんの髪が23年前と変わらず真っ黒であることに触れると「これはね……」と笑っていた。

 半チャーハンは雲龍にはないメニューだった。チャーハンといえば全チャーハンだった。メニューはまったく同じではなく、大熊さんなりの工夫が加えられていた。しかし目の前に出された半チャーハンは、どう見ても一人前の分量があった。サービスしてくれたのかもしれない。

 ラーメンもチャーハンも、雲龍の味だった。細かく味わえば違いもあるのだが、それは同じ料理人の体調による差、程度の差に思われた。
 うん、この味この味、と喜んでラーメンをすするおれに「ほんとはちょっと違うんだけどね」と23年の矜持をのぞかせた大熊さんであった。

 久しぶりに心からの「ごちそうさま」と、社交辞令ではない「また来ます」を言って、じつに幸せな気持ちで飛鳥を後にした。次回はワンタン麺かオムライスだな。

17杯め 9日、ジラジラした日

 半年おきに病院の眼科に行く。
 3年前の脳梗塞に起因する視野欠損が進行していないか、糖尿病由来の眼底出血はないか、などを調べてもらうためだ。
 昨日が眼科検診の日だった。通院日は曇ってくれることをいつも願っているのだが、あいにく、これでもかと言わんばかりに太陽が照りつけやがる晴天であった。

 なぜ曇りを願うかといえば、晴れると眩しいからだ。
 眼底の様子を調べてもらうための過程で、散瞳薬を点眼される。字が示すとおり、瞳孔を開くための目薬だ。こいつを点眼されると、自分を取り巻く世界の眩しさが数倍に跳ね上がる。そりゃそうだ、健全な状態であれば、光が豊かな環境下では人間の瞳孔は自然と収縮するようにできてるのに、人為的に「瞳孔開きっぱなし」の状態にされてるわけだから。

 そして昨日は、おふざけでないよと言いたくなる程の晴天であった。病院を出たとたん、かつて体験したことがないほどの量の光に全身を包まれて、このまま天に昇っていってしまうんじゃないかと思ったくらいだ。ほんとは思わなかったけど。すいません、大げさ言いました。
 さらに、口をついて「こうじらりじられっちゃ、はぁかいかねが」と生まれ故郷の方言が出てしまった。こんなに眩しくされてしまっては何もできないではないか、という意味だ。ごめんなさい、おれは東京生まれだった。こんな方言はありません。でっちあげました。



 ともかく、昨日の病院からの帰路は、眩しいわ暑いわでさんざんだった。それなのにセブンイレブンがおでんの販売を始めたりして、おそろしいことだなあと思う。
 眩しくて目をちゃんと開けられない。つばで目を太陽から守るように帽子を深くかぶったが、さらに手を顔の前にかざさなければ眩しさに耐えられない。
 こんな状態だからよちよち歩幅の俯き歩きだったが、気分はよかった。

 気分がよかった理由は、書けば長くなりそうだけど、書く。久々のブログだしね。



 おれは今年の5月に3週間の入院をした。と言っても、今回の入院は具合が悪くなってのものではない。具合がこれ以上悪くならないように、薬の種類や量を調整するための、前々から計画されていた入院だった。検査入院や教育入院に毛の生えたもの、って感じだ。

 おれの部屋は6人部屋だった。今回はハズレの部屋だったらしく、同室にろくな患者がいなかった。
 自分の不摂生を棚にあげて愚痴をこぼし続ける奴、毎日真夜中に小便をゴミ箱にやらかして「困った困った」と騒ぐじいさん。そんな中に、ひとりだけまともな患者がいた。仮名で松田さんとしておこう。

 松田さんは72歳だが、外見はずっと若々しい。言葉には下町育ちの匂いが残っていて、ちょっと伝法な感じがおれ好み。なんでも、これまで病気をしたことがなく、当然入院は初めて。それどころか検査すら受けたことがなかったので、病院に来たことじたいが初の体験だそうだ。
 たまたま奥さんに連れられて検査を受けてみたら、血糖値が高すぎるのが発覚して、こりゃたいへんとばかりにそのまま入院になったらしい。

 松田さんとおれは階段友達になった。
 おれたちの病室は8階で、おれは1階まで階段を3往復するのを入院中の日課にしていた。松田さんも2往復することを自身に課してしたようで、「腿に効かせる降り方」の話なんかをよくした。

 病棟では週に2回ほど病気の「教室」が開かれていた。
 その病気の原因や患者本人ができる治療法、再発防止のための注意点などを、医師や看護師がレクチャーしてくれるのである。ところがこの教室に出席する患者が極端に少なかった。
 たいていの患者は「そんなの知ってるよ」とばかりにサボっていたし、病院側に参加を強制する権利はない。皆勤だったのは、松田さんとおれだけだった。
 松田さんの姿勢からは、治ろう、治そうとする意志がはっきり感じられた。

 ある日、そんな松田さんの身に変化が起きた。
 入院中は、あらゆる病気の可能性を考えて、毎日様々な検査が行われる。そんな検査のひとつ、松田さんが受けた直腸癌の検査で、初期の癌が発見された。話を聞いている限りでは「いま気づいてよかったね」「処置が早ければ問題ない」といったレベルの癌のようだった。
 しかし、これまで72年の長きにわたって病気知らずだった松田さんにとって、癌という固有名詞のインパクトは強すぎたようだ。

 人って1日でこんなに変わるものか、とおれが驚いたほど、松田さんは癌の告知後に急速に老けた。
 背筋は丸まり、肩はすぼまり、声はしわがれ、歩幅が小さくなった。目から光が失せ、ため息ばかりつくようになり、階段を降りることも、「教室」に出席することもなくなってしまった。

 告知の2日後に、さらなる変化が松田さんを襲った。
 病棟では毎朝、6時の起床時間に看護師が病室を巡回し、患者の状態をチェックする。その日もいつも通りのやりとりが行われた。
 「確認のためにお名前と生年月日を言ってください」という、看護師のお決まりのフレーズに対し、松田さんは答えることができなかった。枯れた声で「あー、その、なんだ」と繰り返すばかりで、自分の名前すら言えないのである。

 そのやりとりをカーテン越しに聞いていて、「脳梗塞だ」と思った。
 癌のときと同じで、一般的な見方をすれば「発見が早くてよかった」ということになる。発症後6時間以内に処置できれば、脳梗塞はほとんど後遺症なしで治すことが可能と言われているからだ。

 しかし、おれには松田さんの脳梗塞は、癌による精神的なショックによって引き起こされたように思えてなかなかった。
 その後の様子を見ていて恐ろしいと感じたのは、松田さんが脳梗塞によって言葉が出なくなってしまった自分自身を受け入れてしまったことだ。言葉がでないもどかしさにいらいらしたり、怒ったり焦ったりしている様子がまったく感じられなかったのだ。

 ほんの数日前まで元気に階段を登り降りしていた松田さんは、「ああ、はやい話が、その、なんだ、あれだ」と、”ちっとも早くない話”を繰り返すだけの老人になってしまったのだ。

 けっきょく、おれが先に退院するまで、松田さんの病状は改善されなかった。
 退院の日、「自分の経験から、脳梗塞は気力でなんとかなるものだと思います」と挨拶して松田さんと別れた。しかし心中に沸いた「ひょっとするとこのまま退院できずに……」という不吉な想像を消すことができなかった。

 退院後に松田さんを思い出すたびに、すごいものを見せてもらったと感じる。
 「人は、気力だ」ということ。本当に落胆してしまったら、3日で人は壊れてしまうということ。
 よくつかわれるフレーズだが、「心が折れる」ことは本当に恐ろしいのだと、松田さんが教えてくれた。



 で、やっと昨日の話に戻る。

 眼科の受診後、会計伝票をもらうために眼科の待合スペースの椅子に腰掛けていた。
 すでに瞳孔が開いてしまっているので、病院内の照明ですら眩しく、目を開けているのがつらい。視界のなかのすべてが「にじにじ」している。しかたないので目を閉じていると、聴き覚えのある声が耳に入ってきた。

 目を開けて、にじにじの中を探すと松田さんがいた。入院中にはなかった杖を持ってはいたが、ずいぶん回復したようだった。
 付き添いの奥さんとの会話が、ちゃんと会話になっている。切れのよい東京弁にはほど遠いが、だいぶよくなったことがわかる。脳梗塞発症後の口癖だった「はやい話が」も出ていないようだ。
 眼科の受付でおれの名前が呼ばれた。腰掛けている松田さんの前を通るときに「だいぶよくなりましたね。よかった」と声をかけたら、すぐにおれのことがわかったようだった。

 昨日、じらりじられっても気分がよかった理由が、これである。
 スキップしたいくらいうれしかったが、転ぶといけないので我慢した。

16杯め 追悼・立川談志 話芸の神さまの隠し子

 談志が死んだ。
 知ったのは迂闊にも今日、友人からのツイッターを介したメッセージだった。21日に亡くなっていたのか。その日は我が家の墓の移転をしていた。30年を越えて通った千葉の松戸にあった墓を、家から歩いていける板橋の墓苑へ。移転元と移転先の双方で焼香したから、家元にもいくらかは煙が届いたろうか。

 去年、練馬で開かれた一門会に談志が出た。退院から間もない、細くて小さなおじいさんの談志を初めて見た。近況を2〜3分だけ語ってくれれば充分な状態だった。しかし談志は『強飯の女郎買い』に入った。発声練習で終わるだろうとたかをくくっていたら中段に進み、さらに『子は鎹』の半ばまで。ゆうに40分以上をかけて『子別れ』をほぼ通しで演ったことになる。いいものを観せてもらったと思った。これが談志の最後の落語だと覚悟した。

 だから訃報を聞いてもおれは驚かないだろう。そう思っていた。そして今日。なぜかずっと背筋が伸びている。リラックスしようとしても背中がピンと立ったままだ。心から敬服している人を失うと、人間ってこうなるのか。最期に貴重なことを教えてもらった。ほんとうに多くのことを教えてくれた人だ。背筋の伸びてるうちに書かなきゃな、と思った。

 40年ちかくも昔。小学校の国語の授業だった。その日のテーマは回文で、知ってる回文を順々に挙げて行った。「竹藪焼けた」「新聞紙」「イカ食べたかい」。誰かが言った。「談志が死んだ」。全員が笑った。教師も笑った。 談志は、小学生ですら誰もが知っている有名人だった。しかし談志の顔の売れかたは、そこいらの人気者とは違っていた。談志の名を口にするときには、誰もがすこし斜に構えるような気配があった。そんな言葉は知らなかったが、トリックスターがいちばん近い。毒入りのトリックスター。

 小心者のおっちょこちょいで、気にしぃの調子乗りの寂しがり屋。そんな弱さを隠そうともせず、背中で押して前に出る。「どうせ俺なんか偽物だからな」と口火を切って、あとに続く噺は本物だ。

 談志からどのくらい影響を受けただろうか。ここ20年ほどは、毎日のように寝る前に談志の落語を聴いている。毎日1時間、年に200日と少なめに見積もったとしても、時間だけならおつきの弟子より長く聴いているかもしれない。睡眠学習で体に染み込んだ談志流は、「談志を引いたらどれだけおれのオリジナルが残るのか」と不安になるほどだ。

 「学校は誰のためにあるか知ってるかい? 病院は? 国会は? 生徒だ患者だ国民だのと、きれいごとは言うなよ。学校は教師のためにあるに決まってるじゃねえか。医者と看護婦が食わなきゃ病院なんてないんだよ。もちろん国会は議員様のためにあるんだ」。まさに正論。これ一発で、談志を本気で聴く構えができた。

 平成以降の談志しか知らなければ、芸界でいちばんエライ人だと勘違いするかもしれない。しかし若き日の対談や座談会を読むと、大橋巨泉や青島幸男長部日出雄といったあたりに、ぐうの音も出ないほどにやり込められて泣きを入れている。談志がえらいのは、それを隠そうともせずに自分の全集に再録するところだ。やり込められる様もカタチになって映るのが、この人の逞しさだし愛嬌だ。

 当時落語の王であった志ん生。その息子の志ん朝をライバル視し、ずいぶんと嫉妬の炎を燃やしたらしい。後輩の志ん朝が先に真打に決まったとき、「辞退しろ」と詰め寄ったエピソードはいかにも談志らしい。ああ、談志はエピソー「ト」と濁らず発音してたっけなあ。それと「順風満帆」を声に出すときは、いつもゆっくりだった。最期に(?)が隠れてるような、読みに自信がなさそうな感じ。

 志ん朝は落語の王様の息子だ。談志はタクシーの倅だが、おれは神の子だと思ってる。それも、落語にとどまらない話芸全般の神さまの、照れと恥を心得た隠し子。

 病的なまでに芸を愛した子どもに、話芸の神さまはそれを演じる力を与えた。一度聴いた芸を忠実に、ときにはオリジナル以上の魅力とともに再現する力。まだ30そこそこだった談志の芸評には、執拗なまでの観察力と、常軌を逸した再現力の両輪が唸りを上げて回っていた。小えんだった二つ目時代の『源平盛衰記』を聴けば、よほど鈍感な奴で無い限り、才能とは本当にきらきらと輝くものだと感じられるはずだ。

 壮年になった談志に客席から掛け声が飛んだ。「中興の祖!」 本人、大テレであった。
 おれが談志に教わったいちばん大切なこと。それは「照れのない奴はバカだ」。ヤダネー。

 おれは談志ひとり会にいくと、必ず居眠りをしてしまった。ある回で、演目の『鮫講釈』にかけたわけではないが、いけないと思いつつ船を漕いでいた。談志の高座は寝られるのだ。気持ちがいいのだ。すると張り扇で釈台を叩く鋭い音。はっとして目を開けると、談志がおれを見てた。にやりと笑って「おれの高座で寝る奴なんかいねぇよな」。

 追悼番組は見ない。死んだ途端に名人扱いする有象無象を見たくない。気の利く友人が、若き日の講座風景だけ集めてDVDにしてくれるのを待つことにする。
 正蔵が彦六で死んだとき。マスコミが名人扱いする中で談志が言ったね。「おれのほうがよっぽどうめえ」。本当だから始末に負えない。

 談志は死んで本望だろう。敬愛した手塚治虫が、阿佐田哲也が、田辺茂一が待つ場所にやっと行ける。夢と終わった志ん朝との二人会だってできる。

 本名 松岡克由。享年75。
 戒名 立川雲黒斎家元勝手居士

 家元、本当にありがとうございました。