喫茶ナゾベーム

金のかからぬ道楽の日々

10杯め コーヒーの日とスターバックス

コーヒーの日とスターバックス


 10月1日は『コーヒーの日』だそうだ。

 と聞いたときに、反射的にカチンときてしまった。語呂合わせの記念日や、「話題のための話題」を憎々しく思っているから。前者だとたとえば『いい夫婦の日』。なんだそれ。余計なお世話だ。後者だと、ユーザーが増えつつあるザ・インタビューズみたいなの。人に話をしたい、聞いてほしいって気持ちならまだわかるけど、「人に話を聞かれたい」って、精神構造がもつれちゃってるよ。自意識過剰をこじらせた状態とでも言おうか。

 で、コーヒーの日。
 おれが邪推したのは「10」を力づくで「CO=こ」と読み、「1」を「ひ(ー)」とする、道理そこのけの語呂合わせなんじゃないか、ってことだった。でも調べたらちがってた。
 今日をコーヒーの日と決めたのは全日本コーヒー協会で、1983年のことだそうだ。おれが大学生になった年。ずいぶん昔だね。
 「コーヒーの年度始めが国際協定によって10月と定められていること」が日付の理由らしい。もうひとつ、「秋から冬にかけてコーヒーの需要が上がる」ってのもあるんだって。語呂合わせの5月1日とかじゃなくてよかった。

 このコーヒーの日を狙ったかのように、プレゼントが届いた。チャイムに呼ばれてドアを開けると、大きな箱を抱えた飛脚のおにいさん。通販はよく利用するほうだが、そんなに大きな物を注文した覚えはない。同じ建物に住んでる実家宛ての荷物で、部屋番号を間違えたのだろうと思って確認してみた。おや、たしかにおれ宛てで、スターバックスからだと言う。

 ああ、言われてみれば心当たりが。でもまさか……と思って梱包を解いてみる。最初に出てきたのがこの紙だ。





 スターバックスの15周年記念キャンペーンにネットで応募したことをすっかり忘れていた。「当たっても末等だろう」程度の軽い気持ちで応募したのが、なんと特等、A賞、とにかくいちばんいいやつ。
 段ボールが大きかったのは、デロンギのエスプレッソメーカーと、エスプレッソに必要なものが一式詰まっていたからだ。

 ありがてえな、こりゃ。春から縁起がいいや。秋だけど。スターバックスにお礼しなきゃな、と思い、段ボールの中身を引っ張り出すまえに最寄りのスターバックスに向けて歩きだした。

 スターバックス。日本にすっかり定着したこのコーヒーチェーンに対して、おれはすこし屈折した感情を抱いている。
 会社や店や商品ではなく、スターバックスが大好きだった"ある人"にまつわる"コーヒーよりも苦い思い出"がたくさんあるからだ。その人はスターバックスが日本に上陸する以前からのファンだった。初めて会った日に、自分で焙煎したフレーバーコーヒーをくれたくらいだから、コーヒー全般に対して豊富な知識を持っていたのだと思う。

 アメリカにおいしいコーヒーショップがある。スターバックスという名の店だ、と海外旅行が趣味だったその人は言った。のちにおれが仕事でアメリカに行くときには、いつも「現地のスターバックスでオリジナルタンブラーかマグカップを」とおみやげを指定されるようになった。銀座に日本第一号店がオープンしたときだって、初日でこそなかったが、すぐに連れて行かれた。

 スターバックスのコーヒーについて、おれはとくに深く考えるでもなく「けっこうおいしい」と思っていた。そもそも、おれがコーヒーの味や香りについて真剣に考えるようになったのはここ数年のことで、「苦けりゃそれでい」程度の時期が長かった。そんなバカ舌だから「なるほど、これがおいしいコーヒーってことね」と、評判と評価をとりちがえたような捉えかたをしていた。

 伏せて書くのが面倒なので言ってしまえば、それはおれの妻だった人だ。過去完了形。いろいろなことがありすぎて、おれにってのスターバックスは、そこで飲むコーヒー以上の苦味を感じさせる存在となっちゃった、というわけだ。

 意識してコーヒーを味わうようになったいまでは、それなりに知識も増えた。スターバックスについては、コーヒーを楽しむうえで無視することのできない大きな存在だと認めながらも、なかなか足が向かない。
 「いい豆をつかってるみたいだけど、アメリカで焙煎した豆を運んできてるらしいから、鮮度はどうだかね。生クリーム入りのデザートドリンクとしてはおいしいけどさ」などと思いながら、店を横目に通り過ぎるだけだった。
 いつかスターバックスのドリップコーヒーを真剣に味わって、おかしな方向に傾いているにちがいのない自分のイメージを修正しないと、と思いながら、やっぱり店の前を素通りし続けていた。

 そんな状態でも、コーヒーに興味を持っていればスターバックスの情報がどうしたって耳に入る。15周年記念のキャンペーンに応募したのだって、公式サイトのチェックだけはしていたからだ。
 そして、特等が当たった。ふつうは当たらないよね、こういう賞は。こりゃもう「もう一度飲みに来てみなよ」とスターバックスが言ってるとしか思えない。

 賞品の荷解きをするまえに自宅からいちばん近いスターバックスへ向かった。おれが暮らしている板橋区はスターバックス不毛の地のようで、ショップが2店しか存在しない。そのうちの片方が我が家から1キロ弱の場所にある。ただし、「そこにスターバックスがあららしい」とだけは知っていたが、場所が特殊なので通りすがりに見かけるようなことはなかった。
 「日本大学板橋病院店」。大きな総合病院の敷地内にあるのだ。





 病院の構内にあるスターバックスへにいちばん近い入口がこれ。横を通ったところで、タクシー乗り場の向こうにスターバックスへがあるとは誰も思うまい。
 この病院とおれは、縁がありそうでなさそうで、やっぱりありそうという不思議な関係だ。30年以上も昔のことだが、父が突然倒れて運び込まれ、そのまま息を引き取ったのがここだった。そのときおれは300キロも離れた場所にいたため、日大病院には行かずじまいだった。
 いまおれが暮らしている部屋の隣には、この病院に勤める医師の一家がすこし前まで暮らしていた。その一家の前にも、日大病院勤務の医師や医学生が借りることの多い部屋だった。つまり、おれの住まいと日大病院はそれほど近いということだ。





 敷地内に入っても、どこにスターバックスがあるのかがわからない。売店で道順を聞き、「ほんとにあるのかね」と半信半疑で店を探した。
 たしかにスターバックスがあった。ただしカウンターだけの小さなスペースで、客は当然のように見舞い客と入院患者だから、いわゆる”スタバユーザー”的な人はいない。スターバックスを求めてわざわざ病院構内まで来た人間など、この日はおそらくおれだけだったろう。





 300円のドリップコーヒーは、予想していたよりもおいしかった。深煎りの、がつんとくるコーヒー。レシートを見ると、ドリップコーヒーを飲んだ日のうちであれば、他店であっても2杯めが100円になると書いてあった。これはうれしいサービスだな。





 もう一杯、"スターバックスの味"を覚えるためにエスプレッソを注文した。このところドリップコーヒーばかり飲んでいたので、エスプレッソは久しぶりだ。「ほんとにちょびっとなんだなあ」なんて思いながら、デミタスカップに淹れてくれたエスプレッソを飲んだ。
 キレ、コク、苦味。同じコーヒーでありながら、ドリップされたものとはまったく異なるおいしさ。もう一杯、といきたいところだったが、続きは家で淹れればいい。





 足早に家に向かって歩く。8分ほどで着いた。しかも直線。思っていたよりずっと近い場所にスターバックスがあったんだな。
 段ボールの中身を検める。気前よく詰め込んでくれたな、こりゃ。エスプレッソマシンだけでなく、フォームドミルクをつくるためのミルクピッチャーのセット(デロンギ製)、エスプレッソ用に焙煎されたコーヒー豆250グラム(グラインドはされてない)、15周年記念のオリジナルショットグラス2つ、そして15周年オリジナルのタンブラー。

 こういった懸賞やキャンペーンでは、"本体"だけをプレゼントして「ほかに必要なものは自分で買い揃えてね」というケースが多いと思う。ところが今回はすべてが揃っている。たくさんのものをもらえたから嬉しい、という気持ち以上に、「さあどうぞ」というスターバックスの姿勢に頭が下がる。





 ショットグラスの底からセイレーンが見てる。現行のひとつ前のロゴだが、COFFEEの文字があるぶん、こちらのほうがおれは好きだ。





 マニュアルにひと通り目を通して、エスプレッソを抽出してみる。
 「問題は粉のグラインドだよな」と思っていたが、なんとか合格点の粉が挽けたと思う。









 趣味としてコーヒーの世界に首を突っ込んだものの、目はエスプレッソには向けていなかった。その最大の理由が"マシン"だ。高い圧力をかける必要のあるエスプレッソの抽出は、専用のマシンを要求する。また、通常のドリップコーヒー用のミルでは、エスプレッソに適した細かさに豆を挽くのが難しい。ドリップ用だとミルと呼ばれるものが、エスプレッソ用となるとグラインダーと呼ばれる。名称が変わるだけでなく、価格も上がる。といった知識を本やネットで仕入れていたので、おれにとってエスプレッソへの敷居は高すぎると考えていた。
 ところが、スターバックスが高価なマシンを気前よくプレゼントしてくれた。手持ちのミルーナイスカットミルーの目盛りをいちばん左の極細に合わせて挽いてみたら、そこそこ行けそうな細かさになった。










 新品のショットグラスではなく、手持ちのデミタスカップに2杯ぶんを抽出した。理由はふたつ。1杯だと物足りなくなりそうだったこと、そして、なんとなく2杯ぶん抽出したほうがおいしくなりそうな気がしたこと。欲張りと勘。根拠はない。









 マシンの横っ腹には15周年を記念するプレートがある。そう、これは非売品の特別なエスプレッソマシンなのである。

 家庭用とはいえ、エスプレッソマシンはけっこう大きい。ふつうなら置き場所に頭を悩ませるところだ。しかしおれの部屋にはちょうどよいスペースがぽかんと開いていた。まるでマシンが来るのを待っていたかのように。設置してみると、ごく自然な佇まいに映るじゃないか。

 エスプレッソマシンは、じつは初めてではない。いまから10年よりも昔、発売と同時にネスプレッソというマシンを衝動買いして、けっこう気に入ってつかっていたのだ。粉の詰められたカプセルを通販で買うシステムだったので、割高な反面グラインダーが不要で、マシンのメンテナンスも楽だった。
 「家でエスプレッソが飲めるだけで気持ちが豊かになるもんだ」なんて思いながら愛用していたが、その後の「いろいろありすぎた出来事」のなかで、ネスプレッソもまた悲しみのリマインダーとなっていった。
 カプセルを新しく注文しなくなってからも、未練がましく本体だけを持ち続けていたが、5年ほどまえに処分した。またいつか家でエスプレッソを楽しめる日が来るかなあ、なんて思いながら。

 その日が唐突にやってきたわけだ。ありがとうスターバックス。ありがとうコーヒーの日。
 正直なところ、"豊かな気持ち"の準備は整っていなかった。しかし狭い部屋の中にマシンの設置場所が空いてたくらいだから、無意識のうちに準備を始めていたのかもしれない。

 エスプレッソとの新しい豊かな関係、始めさせていただきます。
 もういちど、ありがとう。

 (追記)
 コーヒーの日ってことで、エスプレッソ用の道具を置く場所を整えた。100円ショップでカゴと仕切り板を見繕い、道具を納めてみた。うん、いい感じ。
 これまた100円ショップで買った袱紗でカゴごとくるんで、エスプレッソマシンの下に置いてみる。グー。