7杯め イッツ・ア・サンポジェニック・デイ
台風が来るたびに体の芯がざわざわして、じっとしていられない。ズボンを海パンに履き替え、上半身は裸のうえに赤くて丈夫なレインコートを着る。ボタンもファスナーもしっかりいちばん上までしめる。足は裸足にビーチサンダル。傘など差しても無駄なので手には何も持たない。
これがおれの台風散歩のスタイルだった。ちょっとした変質者である。心ゆくまで暴雨と暴風のなかを歩いたあとに入る熱い風呂が好きだった。
しかしいまはリハビリおやじになってしまったので、台風散歩は封印した。昨夜は防音サッシの鍵をきっちり閉めて、台風など来ていないものとして過ごした。
明けて今朝の空。なんだこれ。台風が去ったあとの空の気持ちよさったら、もう。雨と風が町中の塵芥を洗い流したせいもあるだろう。とにかく、すがすがしいとはこの空のための言葉だと思った。台風一過の過は「くゎ」とルビを振りたい、とか言ってる場合じゃない。 サンパブルとかサンポジェニックとか言ってる場合でもない。
とっとと散歩に行こう。
今日は散歩だけど純粋散歩ではない。純粋散歩とは目的なく、ただただぶらぶら歩くことだと考えている。今日は目的地がふたつあるから、散歩としては邪心が混ざっている。でもそれくらいのヨコシマはこの空の下ではチャラどころかお釣りがくらぁ。
まず環七に出る。環七も清々しいじゃないの、今日は。
コンビニ専用のスタジオ。知らない人が見たら、いつも閉まってるコンビニと思うだろう。ドラマや映画、CMでの需要が高いようで、「またあそこのスタジオつかってらあ」と思うことが多い。いいところに目をつけた商売だと思う。
環七沿いにある店のショーウィンドウが気になった。コーヒーの器具っぽいものがあると、つい目が向く。
変わった形の抽出器具かと思ったら、ジュース絞り器だった。
中山道を北上する。道路沿いの商店と首都高速の橋脚に挟まれて、歩道がちょっとかっこいい感じになってる。
散歩の楽しみのひとつに「曲がったことのない路地」がある。ここなんかも、つい入っていきたくなる道だ。霊験水の鎮守さま、だそうだ。でもまだ先が長いので、曲がらず直進。
かつて『三角商店』というホームページを作ろうとしたことがある。そのくらい、道路の分岐点に残されるように建った店が好きだ。これは三角じゃなくて薄い直方体だけど、周囲をぐるぐる観察してしまった。住みたくはないけどな。
コーヒーを思わせるデザインが目に入ると、つい立ち止まって見てしまう。コーヒーカップの意匠かと思ったら、ラーメンの丼のつもりらしい。残念。しかしドロップハンマーって、店名から商売が想像できないよ。
おれは「ため」を漢字で書く奴が嫌いなんだよケッ、と思いながらハナマサ前を通過。
凸版印刷のなんらかの敷地。小中学校の隣のクラスに凸版印刷の社長の息子がいた。自宅に電話したら「お坊ちゃまはいまテニスコートに」だってさ。
でも二枚目で性格もよかった。持てる者は全部持ってる、ということを教わった。
中山道の向こう側に昭和を感じさせる商店を発見。だからってセピアにする必要もないんだけど。
志村一里塚。
見上げついでに空をもう一枚。
今日の第一の目標、小豆沢墓苑。我が家の墓をここに移すことになったのだ。手続きその他はすべて姉がやってくれているが、おれも一度くらいは見ておかないと。
ビルの中に墓があるという、変わった形態の墓所。壁は2方向が吹き抜けで、天井までの高さが5メートルちかいので開放感がある。昨日のような台風のときにはシャッターを降ろして対処するそうだ。台風による被害はまったく見受けられなかった。
墓園の人もとても親切で、気に入りました。ここなら歩いて来られるしね。
墓園の向かいに大きなショッピングセンターがあった。なぜかはわからないが、おれはフードコートの類いを見ると不思議なほど興奮する。
お、くら寿司もあるじゃないか。いちど母をくら寿司に連れて行きたいと思いつつ、車椅子だから無理か、とあきらめていた。ここなら大丈夫だ。あ、ゆうひ鮨にはすでに連れていきましたから。
ショッピングセンターの駐車場を見渡すと、背景に豊かな緑が。ほう、やるじゃないの板橋区。
このあたりから空模様が怪しくなってきた。
緑の正体を見極めに行ったら魅力的な階段が。なるほど、公園ね。階段を上りたい気持ちが強かったが、半袖だったので蚊がこわくてやめた。根性ないな。
第二の目的地に向かう途中で迷子スキル発動。自分でも呆れる方向音痴っぷりだ。だってさ、グーグルマップやストリートビューで何度も予行演習してから来たんだぜ。
テキトーに歩いてたら、さっきまで沿って進んでた中山道が眼下にあった。いつのまに高度を上げたんだ。
迷子中に見つけたワイルドな料理店。どれが店名なのかはわからないが、とにかくマタギの野獣肉専門店らしい。いつか来てみたいけど、迷ったすえに辿りつけないという落ちになりそうだ。
1時間ほどさまよい歩いた末、自力での目的地到達を諦めて、セブンイレブンのおねえさんに道を尋ねた。買いものもせずに道だけを聞く失礼な客に対して、わざわざ店の外まで出て丁寧に教えてくれた。ダイエットしてないときならアイスくらい買うんだがなあ。でも、この恩は忘れません。
ああ、このペンションっぽい外観の小ぶりな建物こそ、おれの目的地。
カフェ・ベルニーニ。おそらく板橋区でいちばん評判の高いコーヒー専門店。もちろん自家焙煎で、かのカフェ・バッハの血を濃く引き継ぐ店だという。
初めての店ではブレンドをたのむ。コーヒーに対する店の考えかた、接しかたが顕著に表れるのがブレンドだと思っているから。
この店では、客のイメージに合ったカップ&ソーサーでコーヒーを出してくれるそうだ。
抽出はバッハ譲りのペーパーフィルター。小さなサーバーにドリップしたコーヒーをカップにそそぐまえに、スプーンでサッとひと口味を確認していた。そのチェックのしかたが惰性ではなく、時間は短いけど魂が入ってる感じで「カタチがよい」。うん、この店は信頼できる。気に入りました。
おれの前に置かれたカップ&ソーサーを見て、「マスター、よいしょがおじょうずね」と思った。ええ、好きですよ、こういうデザイン。
入店したときにはほかに2組の客がいたが、5分もしたらマスターとふたりだけになった。こちとらコーヒー熱がなかなか下がらない半可通の素人なもんだから、聞き上手のマスターに促されるようにあれこれしゃべる。「ほんとにその通りだと思いますよ」といった合いの手で、さらに調子に乗りそうになった。マスター、やっぱりおじょうず。
ベルニーニブレンドは、ほっとするコーヒーだと思った。道にさんざん迷った末にようやっとたどり着いた一杯だからよけいそう思ったのかもしれないが、「行ってらっしゃい」のコーヒーと「おかえりなさい」のコーヒーがあるとすれば、後者だと思う。
すっきりすんなり、すとんと体に入ってくるクリアなコーヒー。何杯でもおかわりできそうなのに、何杯めであっても飽きがこなさそうなコーヒー。そんな感想を持った。
この店では焙煎豆を100グラムから買うことができる。おれが目当てにしていたブルンジとモカは残念なことに「いま、いい豆がないんですよ」で品切れだったが、シダモ、ケニアAA、そして飲んだばかりのベルニーニブレンドを100グラムずつ買った。
店を出るときにはすでに小雨が降り出していた。マスターは店の外まで出てきて、丁寧に駅の場所を教えてくれた。おれじゃなければ迷わないくらいわかりやすい場所なんだけどね。
降っていなければ帰りも歩くつもりだったが、地下鉄に4駅ぶん乗り、そこから雨のなかを豆をかばいながら歩いた。豆は店の紙袋をさらにビニール袋に入れてくれてあったのから、無事に家まで持ち帰れた。
濡れずに済んだ紙袋。
3種類の豆。焙煎済みの豆を買ったの、久しぶりだなあ。
ケニアAAはおれがよく焙煎する豆でもある。プラスチック容器にお手本として小分けし、焙煎時に色を比べたりするのに使わせていただきます。
今日の散歩。
歩数 13675歩
距離 12.29キロ
消費カロリー 1260Kcal
どんだけ迷ったんだよ、という話。