喫茶ナゾベーム

金のかからぬ道楽の日々

 4杯め コーヒー? 珈琲?


 おれはカタカナの「コーヒー」派だけど、「コーヒーにはちょっとうるさいよ」って人ほど漢字で「珈琲」と書く傾向があると感じている。
 なかには「"王へん"だと偉そうだから」と"口へん"の字をつかう人もいる。中国語での表記も"口へん"だそうだ。
 "口へん"派の喫茶店には主張があるだろうから、「あれ? マスター、漢字が"王へん"じゃないんですね」なんて話しかければ、相好を崩して薀蓄をひとくさり披露してくれたあとで、おかわりをふるまってくれるかもしれない。


 ほかにも獅子文六の小説の題名にもなった「可否」や、「可非」、「骨非」など、さまざまな当て字があって、その数は両手の指に余るだろう。
 「骨非」で思い出したことで、コーヒーとは何の関係もないが、任天堂の社命は1963年まで「任天堂骨牌」だった。骨牌と聞くと麻雀牌を連想しがちだが、事業の中心は長いこと花札だった。だもんで、京都駅からタクシーに乗って「任天堂」と行き先を告げると、年配の運転手のなかには「ヤクザの親玉のところね」なんて悪口を言う人もいた。


 当て字のなかでいちばん広く用いられているのはまちがいなく「珈琲」だ。これは、簡単に想像がつくように、外国語の発音に字をあてただけ。
 日本にコーヒーを伝えたのはオランダと言われている。オランダ語では「koffie(コーフィー)」だから、ほぼそのまんまである。とくに捻ったりはしていない。
 また横道にそれるけど、オーヤンフィーフィーは欧陽菲菲。こっちは"草かんむり"だ。


 「珈琲」の字をを最初につかった人は江戸時代の蘭学者宇田川榕菴だそうだ。オランダ語辞書を編む際に、「骨喜」「哥兮」などと並べて「珈琲」の字を用いたらしい。長い時間のなかでいちばんウケがよくて人口に膾炙したのが「珈琲」だったと、そういうわけ。


 『漢字源』にあたってみると、それぞれの字の意味はこうだ。
珈:婦人の髪の上に加える飾り。
琲:たま飾り。多くの真珠にひもを通して二列にたらした飾り。
 どちらの字も似た意味で、きれいなイメージを持っている。ただし、この意味をコーヒーそのものに重ねるのはちょっと強引かな、と思う。あくまで音が先にあり、見栄えのよい字をあてた、ということだろう。
 ネルの先端から垂れるコーヒーの雫を真珠に見立てた、と解釈すれば美しいが、当時は煮込み式のコーヒーだったはずだから。


 おれは漢字の多すぎる文が嫌いで、とくに「暫く」「漸く」の類を見ると虫唾が走るし、「ございます」が「御座居ます」、「おめでとう」が「お目出度う」なんて書かれていると、何時代だよと言いたくなる。
 外来語についても「すなおにカタカナで書けばいいじゃん」と考えている。さすがにブラジルを「伯剌西爾」、エチオピアを「哀提伯」と書く人はいないだろうが、考えてみれば「珈琲」はこれらと同じ類いの当て字だ。


 ただ、「珈琲」だけは「アリだな」と思う。
 日本には、外来語が敵性語として禁止され、野球をするにも「ストライクバッターアウト」を「よい球打者だめ」と言わされた時代があった。
 コーヒーはその時代にも(質こそ劣悪ながら)人々に愛飲されていたはずで、やむなく「これは珈琲という日本語だ」と言い張って、言葉狩りを免れてきたのではないか、と想像するからだ。「黒茶」とかにならなくてよかった。
 現代でも「日本のコーヒー事情はガラパゴス化している」なんてことが言われるが、その原因を辿っていけば「珈琲」に行き当たるのかもしれない。


 ま、おれはあくまで「コーヒー」派なんだけどね。